【序】
なぜ僕はNGOをめざしたのか
「ソフィアンでんねん」/ボネット神父との出会いと、語学学校の立ち上げ/父の介護に学ぶ/イギリス留学、初めてのクルディスタン
国際NGO、PWJ前期の活動
「ピースウィンズ・ジャパン」の設立/「ジャパン・プラットフォーム」設立を主導/アフガニスタン人道支援と「復興支援国際会議」出席拒否/イラク戦争下での支援
【1】海外援助から広島県・鞆の浦の町づくりへ
鞆の浦の町並み保存
埋め立て架橋問題/坂本龍馬「いろは丸」事件と談判の家/ポニョが鞆の浦を守る
瀬戸内海圏プロジェクト
観光業での町づくり/「千年航路」
【2】国内人道援助へ
国内災害への取り組み
「国内災害タスクフォース」を結成/新潟県中越地震イオンとの提携/帝人と共同開発したバルーンシェルター/避難所登録/未熟だったチームメーキング
地震とTSUNAMIへの備え
古文書で知る津波の恐ろしさ/インドネシア・スマトラ島沖地震/袋井市と「災害時の支援協定」締結/髙橋ヘリコプターサービスと提携
【3】転機
資金難と試行錯誤のとき
「株式会社 風の音舎」設立 2005年/PWJ解散の危機 2006年/豊島でのヴィラの建設と結婚 2007年/「災害即応パートナーズ」発足(2008年)から「Civic Force」(2009年)へ/PWJの責任者を外れる
イラクで原点回帰/ソーシャル・ビジネスの出発点
【4】東日本大震災からの教訓
記録・東日本大震災
2011・3・11/3・13/3・15/3・18/メルトダウン/ロジとマッチング/SNSのインパクト/離島航路を復活させる/「A-PAD」の設立/継続する支援
【5】「ピースワンコ・ジャパン」プロジェクトと広島県神石高原町
保護犬事業と本部移転
神石高原町へ移住/災害救助犬の育成/「ピースワンコ・ジャパン」プロジェクト/PWJ本部移転/広島土砂災害と災害救助犬「夢之丞」/ふるさと納税でクラウドファンディング
【6】「殺処分ゼロ」へ
人と動物が共生する社会
「神石高原ティアガルテン」オープン/「殺処分ゼロ」宣言/熊本地震/救助犬出動/ペット同伴の避難所/内閣府,ヤフーとの提携/中期的な避難所運営
【7】現代美術,伝統工芸,そして広がる“ピースワンコ”
行政、企業、NPO──組織の壁を越える
リヒター・プロジェクト/佐賀市に新事務所開設,伝統工芸の支援/「日経ソーシャルイニシアチブ大賞」受賞/前進する「ピースワンコ・ジャパン」/「ティアハイム」の開設/「PRODOGスクール」の開校/SEKAI NO OWARI との共同プロジェクト
【PWJ20年の歩みとこれから―─「設立20周年感謝の集い」より】
プロローグ 初めてのクルド より
「向こうのイラク側に行ったら、殺されるかもしれないよ。なにせ、あっちのクルド人は獰猛だからな」。(中略)どうして大きな地図をよく探さないと見つけることも難しいクルディスタンに単身訪ねることになったのか。この問いはよく尋ねられる「どうして、NGOやってるの? 動機は?」という質問と重なるところが多いので、少しだけ触れてみたい。
湾岸戦争が終わって1991年の3月に、サダム・フセインは反旗をひるがえしていた北部のクルド人に対して、温存された共和国防衛隊を使って攻勢をかけ、200万近いクルド人がトルコ、イランに難民となって逃げ出した。(中略)私がイギリス・ブラッドフォード大学大学院に留学していた1993年は、まだ湾岸戦争が終わって2年しか経っていない時期だったこともあって、イギリスの学舎でも『人道介入論』なるものが流行っていた。「人道介入」としては冷戦後初となるイラク北部のケースも、多くの研究者が論文を著している。このクルディスタンでの「人道介入」を修士論文のテーマに選んで慣れない英語で四苦八苦していたが、ある日、学者のだれも、現地に赴いていないという事実に気がついた。「ひょっとしたら、全部ウソとは言わないが、想像か?」という疑念がよぎる。そんな論文をもとにした私の駄文は「うその上塗り」じゃないかと急に恥ずかしくなった。
「知力で及ばない分は体力でとりかえすしかない」という信条のもと、クルディスタンに向かったのである。(中略)
アルビルに着いた後、幾つかの難民キャンプを見る。(中略)状況は先進国からきた学生の目には悲惨なものとしか映らなかったが、不思議にも心を捉えたのはそんな難民・避難民の過酷な状態ではなく、少しでも状況を良くしようと駆けずり回っていたNGO、特に、欧米のNGOだった。(中略)ロジスティックス(物資の調達・輸送)というアングロ・サクソンの概念を現実化したように、四輪駆動車、それも日本製を何十台もオフィスの軒先にならべ、何百人もの現地スタッフを雇い、何百キロもの範囲と何十万人という難民・避難民をカバーし、ヤエスのHF無線で遠隔地に指示を出していた。(中略)NGOは小さいものだ、小さくなければならないと思っていたから、衝撃だった。
その旅の1年半後、私はNGOスタッフとしてクルド人自治区に関わることになった。銃弾や砲弾が飛び交う危険な紛争地帯で欧米のNGOが活躍する姿に感銘を受け、「NGOワーカー」になる道を選んだのだ。
ピースウィンズ・ジャパンの人道支援 より
国境を越えてコソボに入った私たちの最初の仕事は、どの地域で支援のニーズが高いかを見極めることだった。こういう紛争直後の緊急援助では、スタート・ダッシュが何より肝心だ。南西部から北西部、そして東部まで、その日のうちに一気にコソボを2/3周した。(中略)今後の方針を話し合った結果、ニーズが高い西部、なかでも中心都市のペア周辺ということで、意見がまとまった。翌日、改めてペアの状況を確かめに行った。(中略)
コソボでの最大のプロジェクトは、1995年の阪神・淡路大震災で使われたプレハブの仮設住宅を運び、難民の住居として提供することだった。(中略)コソボに近いブルガリアやトルコでも探してみたが、値段が日本で調達する場合の3倍もするうえ、納期も厳冬期に間に合わなかった。(中略)すぐに神戸からコソボまでの輸送ルートの検討と、船会社との交渉に入った。(中略)現場では夏からの調査をもとに建設地を絞り込み、ピースウィンズが300戸の建設を担当。年内には入居を完了した。
イラク戦争下での支援 より
開戦が近づくにつれ、国連や欧米の大手NGOも次々にイラクから撤退していった。私も今回のイラク入りがかつてなく危険なものであることは十分自覚していた。戦闘の火ぶたが切られる前に撤退するという選択肢もあっただろう。だが、安易にそうすることを許さない苦い経験が私にはあった。
1年余り前の同時テロとアフガン空爆の際、PWJはアフガン北部の国内避難民キャンプの支援を決めていたが、スタッフの安全確保が難しいと考え、2ヶ月間程度とはいえ国外に退避した。空爆が終わり、避難民キャンプに戻った私が目にしたのは、キャンプ地のわきに並んだおびただしい数の小さな墓標だった。「あのとき踏みとどまっていれば、この子どもたちの命を救えたのではないか」。その思いが私をずっとさいなんできた。(中略)様々な幸運と、相手との間合いをはかりながら慎重に事を進めたことで、ヒヤリとするような経験もなく、順調に支援を続けられた。戦中、戦後を通じて、NGOとしてかなり広範囲で分厚い働きができたと自負している。(中略)今回の支援では初めて、自前のビデオカメラで撮った映像を、衛星回線で日本のテレビ向けに生中継することも試みた。(中略)国内避難民キャンプの実情や、戦争の足音に緊張する町の様子、その中で支援にあたるスタッフの思いなどをカメラで追った。(中略)苦労して撮った映像は、TBS系の「News23」やテレビ朝日系の「ニュースステーション」などで、何度も使ってもらった。紛争の「現場」に最も近いところで仕事する者として、このような形で戦争の現実を伝えることも役割の一つだと考えている。